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阿弥陀仏の救いと善

今回から親鸞会で教わったことは茶色で書きます。

親鸞会で、「阿弥陀仏が19願を勧めているのだから、廃悪修善の教えと阿弥陀仏の救いは無関係であるはずがない」と習いました。

そして、この心を信罪福心と言い、以下のご和讃が親鸞聖人が因果の道理に従って善を勧められた根拠として教えられています。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
(『正像末和讃』誡疑讃)


つまり、未だ弥陀に救われてはいなけれども、因果の道理を信じて善を行う者は真実の弥陀の救いまでもう少しと励ましておられるのだ、と。

しかしながら、次の御文を拝読して、そのような解釈が成り立つのか疑問がおこりました。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
(『化身土文類』)


往生のためにする善は全て自力の心でやる善です。だから、どれだけ善を行っても、自力の心で自力の心を掴もうとするようなものではないでしょうか。

参考までにもう一つ誡疑讃を拝読します。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
(『正像末和讃』誡疑讃)


化土にとどまっていることを願っておられるはずがありませんから、往生または獲信と関係づけて善をすることを勧められているとは思えないのです。むしろ、「誡疑讃」とあるように誡められているのではないかと思われます。

それに対して親鸞会で教わったことからすると、

・信前の善は雑行である
・雑行とは悪い心がけで行う諸善万行(と五雑行)
・雑行を捨てよということは、悪い心がけ=自力の心を捨てよということであって善をするなということではない


となるはずです。

私自身が長い間悩んだのは実にこの点でしたが、雑行とは何かがわからないところに原因があったことに気づいたのは、退会して2ヶ月余りが過ぎてからでした。

次回のエントリーで雑行について学んでいることを整理します。
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プロフィール

mosh

Author:mosh
親鸞聖人の教えによって救われたい自覚を育てられたご恩を感じつつも、教えに疑問を持ち、親鸞会を2010年6月に退会しました。
今も、親鸞聖人の教えを少しずつ学び続けています。親鸞会の方にお読み頂ければ幸いです。

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