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ブログを始めるにあたって

このブログは、自分の教学の理解整理のために作りました。

そして、同時に親鸞会会員への手紙のような気持ちで綴ってゆきたいと思います。

私は感情的な言い争いを望んでいません。

なお、理解を整理するという都合上、古い記事から順に配置しています。

どうぞよろしくお願いいたします。

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辞めたきっかけ

辞めたきっかけは、「三願転入で私が助かる」という教えに疑問を持ったことです。

親鸞会で、19願は要門であり、要とは、

1.必要の要
2.かなめ
3.重要の要
4.かならずとも読む

と習いました。

往生のためには19願を通らなければ18願で救われない。この親鸞会の教義に疑問をもったために私は辞めました。

親鸞会に少なくない財施をしていたのは、19願には善のすすめがあり、その中の財施をすることでこの道を進むと思っていたからです。

果たして19願を通って救われるのか否か。つまり、往生のために善をせよという教えがあるのか否か。それを考えるために、『選択本願念仏集』を拝読してみます。

一向専念無量寿仏とは、親鸞会で阿弥陀仏一仏に向かいなさい、阿弥陀仏一仏を信じなさいということだと教わっていました。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。

「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。

まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。

すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(『選択集』三輩章)


アニメで、何度も法然上人も親鸞聖人も「一向専念無量寿仏」と言われています。それは、善を廃して念仏せよという上記のお言葉の意味であることがわかります。

親鸞会会員の方には、自分でお聖教を読んでもわからないから読まないという自覚の人が多いかもしれません。かく言う私もそうでした。しかし、それは訓練次第だと感じます。

教学聖典で学んだことを通して拝読できる箇所が多いからです。その点は、今も感謝しています。

阿弥陀仏の救いと善

今回から親鸞会で教わったことは茶色で書きます。

親鸞会で、「阿弥陀仏が19願を勧めているのだから、廃悪修善の教えと阿弥陀仏の救いは無関係であるはずがない」と習いました。

そして、この心を信罪福心と言い、以下のご和讃が親鸞聖人が因果の道理に従って善を勧められた根拠として教えられています。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
(『正像末和讃』誡疑讃)


つまり、未だ弥陀に救われてはいなけれども、因果の道理を信じて善を行う者は真実の弥陀の救いまでもう少しと励ましておられるのだ、と。

しかしながら、次の御文を拝読して、そのような解釈が成り立つのか疑問がおこりました。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
(『化身土文類』)


往生のためにする善は全て自力の心でやる善です。だから、どれだけ善を行っても、自力の心で自力の心を掴もうとするようなものではないでしょうか。

参考までにもう一つ誡疑讃を拝読します。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
(『正像末和讃』誡疑讃)


化土にとどまっていることを願っておられるはずがありませんから、往生または獲信と関係づけて善をすることを勧められているとは思えないのです。むしろ、「誡疑讃」とあるように誡められているのではないかと思われます。

それに対して親鸞会で教わったことからすると、

・信前の善は雑行である
・雑行とは悪い心がけで行う諸善万行(と五雑行)
・雑行を捨てよということは、悪い心がけ=自力の心を捨てよということであって善をするなということではない


となるはずです。

私自身が長い間悩んだのは実にこの点でしたが、雑行とは何かがわからないところに原因があったことに気づいたのは、退会して2ヶ月余りが過ぎてからでした。

次回のエントリーで雑行について学んでいることを整理します。

雑行の位置づけ

親鸞会で教わった雑行についてまず整理します。

・雑行に、五雑行といわれるものと諸善万行とがある。
・五雑行とは、後生の一大事助かろうとして阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に仕える行為。
・諸善万行を雑行といわれるのは、悪い心がけ(自力の心)でやる諸善万行のこと。雑行を捨てよとは悪い心がけ(自力の心)を捨てよということであって、善をするなということではない。


これについて、私の知る限り、お聖教のお言葉で教わったことがありませんでした。そこで、法然上人の選択集を通して仏教の中での雑行の位置づけについて学びます。

選択集のはじめは二門章といい、「道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文 」とあります。これは仏教に聖道門と浄土門の2つがあり、聖道門を捨てて浄土門に帰せよということです。これは聖浄廃立という言葉で教わった通りです。

次の二行章は、「善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。」とあり、その浄土門には正行と雑行の二行が教えられているとあります。以下、引用していきます。(原文は意外と難しくありません。)

まず、『観無量寿経疏・散善義』にある就行立信釈(行に就いて信を立てる)といわれているお言葉が引用されています。少しずつ見ていきます。

『観経疏』の第四(散善義)にいはく、「行につきて信を立つといふは、しかも行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生の経によりて行を行ずるもの、これを正行と名づく。いづれのものかこれや。

ここまでで区切ります。

これは、浄土門で教えられている往生の行には、正行と雑行の2つがあるということです。このことは、法然上人の私釈に、

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

とあることからもよく分かります。

『散善義』のお言葉に戻ります。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す。これを名づけて正となす。

教学聖典に出ていた五正行のことです。

またこの正のなかにつきて、また二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。

五正行は、正定の業(正業)である称名正行とそれ以外の助業との二種あることが教えられています。これも教学聖典に出ていました。

そして、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」と、五正行以外の諸善を全て雑行というのだとあります。

まとめると、仏教には聖道仏教と浄土仏教とがあり、聖道門を捨てて浄土門に帰しなさい。そして、弥陀の浄土に往生するには雑行を捨てて正行に帰せよ、つまり、「往生のためには」五正行以外の諸善を捨てよということです。

長くなったので、正定の業については次のエントリーにまとめます。

正定の業とは

前回の話を続けます。

選択集から、五正行以外の諸善を全て雑行と言われるのだと学びました。

法然上人は、五正行を修めようと思うならば、正定の業(正業)と助業の二業のうち、正定の業である称名念仏を専らにせよと教えられています。以下が、それを教えられた法然上人のお言葉であり、親鸞聖人は『教行信証行巻』に引かれています。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


親鸞会で、正定の業とは「正定聚不退転にする働き」のことだと聞いていましたが、ここでは「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり」とある通り称名念仏のことであり、正しく往生が定まる行業のことです。

正定の業が正しく往生(成仏)が定まる行業であるという意味であることは、以下の親鸞聖人のお言葉から分かります。

「正定之業者・即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名を称するなり、正定の因といふは、必ず無上涅槃のさとりを開くたねと申すなり。(尊号真像銘文)


「是名正定之業・順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業といふ、仏の願にしたがふが故にと申す文なり。(一念多念文意)



まとめます。

親鸞会では親鸞聖人の教えに善のすすめがあると教わりましたが、往生を目的にして五正行以外の善を実行すると雑行になります。

さらに、法然聖人も親鸞聖人も五正行の中でも助業を傍らにせよと教えられています。親鸞聖人の教えには、正定の業である称名念仏のすすめがあるということです。
プロフィール

mosh

Author:mosh
親鸞聖人の教えによって救われたい自覚を育てられたご恩を感じつつも、教えに疑問を持ち、親鸞会を2010年6月に退会しました。
今も、親鸞聖人の教えを少しずつ学び続けています。親鸞会の方にお読み頂ければ幸いです。

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